良質な生活

トコトコ歩いていた人が、ある日突然歩くのを止める時がある。
モリモリ食べていた人が、ある日突然食べるのを止める時がある。
医学的に理由はなかったりすることの方が多い。
「消極的自殺…」って言ったりする。
自らもう生きることをやめにかかった‥ということ。
「食べないから死ぬ」のではなくて
「もう死ぬから食べなくていい」って感じ。
なかなか元気に生きてる人にはわかりにくい感情だよね。
だよね。

良質の生活が送れているからと言って幸せで何の苦労もなく生きることは素晴らしいってことになるかどうかはわからんでしょ。そもそも質の良い生活とは‥単にモノに恵まれているだけじゃなくて、自由でそれぞれの立場で信頼関係に厚く、正直で品が良いだけでなく、安心できる環境下で穏やかに暮らすこと‥でしょうかね。でも、生きている限り何らかの諍いに巻き込まれたり問題が発生したり、思いもよらんことが起こったりはするはずで。さっきまでは「良質」だった生活が一気に不安でいっぱいになることだってある、だって生きてるから。

だからいくら自由で好き勝手出来て いつだってなんだって好きにしていいんだよってめいの家が言ったとしても、言い続けてみたところで…良質かどうかは本人にしかわからんこと。

逆に「もう生きるのやめよ」って思ったからって昨日までが不幸の塊だったとも言えない ってことでしょ。

樹木希林さんの120の遺言「死ぬときくらい好きにさせてよ」というタイトルにもあるように、好きにさせてあげたい。私も好きにしたい。でも、死に向かおうとする人を「どうぞーいってらっしゃーい」と気送ることも、見て見ぬふりすることも難しい。ご本人とご家族の決める事なんだけどね、看てるのは私達やろ。どうにか一口でも‼と思うし 感情を露にしてほしいとも思う。…でもこれまた 諦めず生きてほしいというのでもない。

難しいなぁ。「全うしてほしい」が正しいかな。一緒にね、これでさよなら、まで全うしたいよね。それがめいの家での良質の生活かな。

何も考えてない、ただ爆睡中の子犬。見ているだけで癒される。トラジです。

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