二十一話 巡査さん呼んで!!!
娘さん二人が困りはてて相談に来られた。母が攻撃的で暴力も振るい一日中命令されて生活が立ち行かない・・と。長女さんは仕事をされていてサバサバした決定も早い切れ者で、次女さんはポワンとしてるのに表情硬く鬱病診断を受けていた。この鬱は、母と一緒に暮らしてから悪化した。共依存・・お互いに依存しあう関係ってことだけどこの母娘はそんな感じ。心配して何でも言う事を聞いてしまう次女と何でも娘に頼り、頼っている割には偉そうに命令する母。昔のキラキラした自分のこと自慢ばっかして、あんたには私のような仕事は出来ないでしょう、私の言う事聞いとけば間違いないからってね。毎日その我儘と付き合い何年も言う事聞いて来た結果、その娘たちは母を捨てることにした、と言った。長女さんが先に切れた。もう知らん!!私の人生だってこんな人に振り回されていいほどの時間は残ってない。限りあるのにもう嫌だってね。そして、もう絶対に言う事聞くなって次女さんに命令した。次女さん大変!!あっちからもこっちからも偉そうに言われちゃってさ・・お気の毒すぎて・・任せろ!!ってね。そのエラそうな母様を預かることにした。
「こんにちは。よろしくお願いします」と初対面で言うと
「巡査呼びなさい。無礼ですよ」と猛獣のような目つきで睨まれた。
私たちは母様が雇っているお手伝いさんで、口答えすることは許されない。納得できない事が怒ったらすぐに巡査さんが私たちを捕まえて牢屋に入れる手はずだ。使用人は母様の言うとおりに働くことが生きがいでないといけない。という持論を展開する。
実はこの時すでに母様の身体は病魔に侵されていた。全身癌で、原発部位は肝臓。腹水も溜まり始めていたし白目も黄色っぽかった。でも、毎日社交ダンスのお稽古に行くと言い、大好きな宝塚歌劇の「すみれの花」を高い綺麗な声で歌って拍手を強要した。仕事で表彰された事やどこに行っても必要とされて忙しかったことなど、自慢話をしている時は機嫌がよかった。
家族は、末期癌だとわかったら入所を取り消されるんじゃないかと思ったらしく入所してもしばらくは病気について何も語らなかった。まぁ、薬やかかりつけ医の診療情報やらですぐにばれちゃったんだけどね。それくらい、もうどんなことしても母をほり出したかったんだよね。二人ともその頃の母を嫌っていた。長女さんは「昔のお母さんを思い出せとか、感謝もあるでしょうとか、ちいさい時はいいお母さんでしたか、とかもういい加減にしてほしかった。ケアマネさんや包括さんは私たちが残酷な事をしていると言いたいのですか?それとも母を捨てる私たちを責めたいのですか?何と言われても私は自分の生活の方が大事です。なんか問題ありますか?これ虐待なら警察呼んでください。母にさんざん警察呼ばれたので何も怖くないです。」と絞り出すような声で訴えられた。私は、おしゃべりなのだけどこの日は「はい」しか言ってない。黙ってずっと話を聞いた。ちょっとでも気が済めばいいと思った。話したいことは三日三晩あっても終わらないらしく「もういいわ。疲れた。絶対母を返さないで。約束してください。」と言われたので、小指を出して約束します、と伝え指切りした。少しだけ肩の力が抜けたようでフッと笑ったようにみえたのは私だけかな。後ろで黙って聞いておられた次女さんは後日電話で「母は私を恨んでいませんか?怒っていませんか?会えますか?連れて帰ってもいいと思っています。姉とは別に暮らします。私は母と心中してもいいんです。」と必死で話す。鬱酷くなってるやん、どうしてあげたらいいやろって悩み事の矛先が変わった。愛のカタチは様々で信じられないカタチいっぱいある。誰かが止めてあげなきゃ命にかかわることもある。どうする!?!私!
さて、憎たらしくて皆に嫌われていた母様は段々と月を追うごとに皆にいじられてよく笑う面白い楽しい人に変貌していった。母さまの周りにはいつも笑いが溢れ、職員も利用者も距離がぐんぐん近づいた。何も説明しなくても助けなくても、次女さんはその母を見て笑えるようになっていった。母様と次女さんと一緒に焼き芋を食べ、駐車場でランチして、お買い物に行き、添い寝してちょっと離れた生活の中で母娘を楽しんでいた。その姿を見て長女さんの怒りは解れた。親子はまた違う親子の顔を取り戻した・・かにみえた。束の間。 楽しかったんだぁ~面白かったんだぁ~冗談も面白いし少女のようなかわいさもあってみんなふざけてはっちゃけていた。
ところが、病状が悪化し始めた。少しずつ・・少しずつ・・血液検査の結果も増悪、足もふらふら、食事も食べなくなってきて・・眠っている時間が増え続けた。宝塚歌劇のDVDを流したり、社交ダンスの音楽をかけたり・・でも興味なくなっちゃった。その頃にはもう私たちが信頼できる相手になっていて、入所前に癌の手術をしたけどお腹開けてみたらもう・・触れる状態じゃなくてそのままお腹を閉じた事、そんなこと話したらきっとめいの家に入れてもらえないから黙っていた事、そして長く生きられないのは分かっていた事を話された。「私たち姉妹を幸せにしてくださって感謝しかない。母がこんなかわいい人になっちゃって、いつ死んでもいいって思ってたのに辛くなるわ。」と笑い泣き。職員皆笑い泣き。ここから壮絶な最期が始まるが・・覚えてないや。辛かったんだろか?一緒にいること楽しかったから覚えてないや。とにかく痛くないように、辛くないように・・皆それだけ思っていたんだな。一年半、短い付き合いで母様は逝った。皆で看取って最後の写真も撮った。リビングに一番近い事務所にベッド置いて、皆の声が聞こえる様に寂しくないようにリビングからいつも呼んでいた日々が終わった。普通ならここで話は終わる。この後、おうちにお邪魔して母様にお線香あげて思い出話をしてきれいなおうす茶碗でおしゃれにみつ豆頂いた。次女さんにまた誘うからね、迎えに来るからねって約束していっぱいハグして安心して帰って来た。そう!!もう心配ないって安心していた。普通ならここで話しは終わる。終わるんだ。
平成27年10月に母様が逝って、その年のクリスマスは次女さんをパーティに誘って一緒に過ごした。お正月前の12月28日、お餅つきも仕方なくって感じで来てくれて一緒にお餅や焼き芋を食べた。長女さんからも「一人で引きこもってますから、誘ってやってください。どんどん外に出してやってください」と喜んでおられた。嫌々でも来てくれるなら、誘って迎えに行って一緒にいたいと思っていたから「良いお年を!!春祭りにまた誘いに行くからね。一緒にお祭りしようね」って言ったら「もう来ないってば。しんどいのよ。もう誘わないでよ。」って困ってた。可愛い人なのだ。次の年の春は連絡がつかなかった・・そのまま夏になり暑中見舞いを送った。私、お年賀と暑中見舞いだけは自分で書く。印刷したはがきじゃなくて万年筆で書く。これだけは続けたいと思っている。汚い字だけどひとりひとりお顔思い浮かべながら元気ですか?って時間を止めて書きたい。‥そのはがきの返事が長女さんから来た。2月に次女さんは亡くなっていた。手紙を読んで放心状態が続いた・・あかん!電話しよ!長女さんと久しぶりに長電話・・次女さんは長い間鬱病で抗うつ剤を服用していたせいで胃潰瘍も痛みがなかったこと、鬱病のせいで痛い事辛い事が真剣に取り合ってもらえない期間があったこと、本当に病気なんだと気付いた時にはもう‥手遅れだった と。次女さんが私に何かあっても連絡するなと言っておられ、連絡するのが遅れたと謝られた。そんなことはいい。いいんだ。謝らなくていいんだ。そんなことより、なんかできることあったんじゃないの?私。
こんなお別れが・・。今も苦しい。
母様と次女さんのお仏壇に手を合わせていたら長女さんが「二人は喧嘩しながらもとても仲良しでした。いいコンビだなってうらやましい気持ちもあったくらいです。だからきっと母が急いで呼び寄せたんですよ。妹も母も楽しくやってると思います。私ほんとにそう思うと気が楽になったんです。だから、めいの家の皆さんも悲しまないで、二人で仲良くやんなさいよって声かけてやってください」とおっしゃって、おうす茶碗にみつ豆を御馳走してくださった。次女さんに頂いた時と同じ器で、母様と次女さんの思い出話しながらいっぱい笑った。お仏壇からお二人がちょっと笑っているような気配がした。
また、会いましょう。またいつか。二人仲良くやってくださいよっ!