十三話 諦めた人。

保険会社で働く彼女は、常にトップの成績で勉強熱心でお客さん想いで痒い所に手が届く気が利く・気の付くセールスウーマン。もちろん!みんなから慕われていた。定年を五年後に控えたある年の春、パソコンが導入された。初めて見るコンピューター!この小さな箱の中ですべてが管理されていく未来など彼女には見えなかった。その小さな箱を馬鹿にし、心のこもった付き合いはコンピューターなどにできるがずがないと自分の仕事スタイルを変えなかった。でも、一斉に本社からのお達しで、マニュアルが配布され全職員がコンピューターを使って仕事を覚えることになった。常にトップの彼女は、仕事に対して揺るぎない自信を持っていたが、若いスタッフにあれよあれよという間に追い抜かれ、コンピューターの操作も出来ないし覚えられないのに、トップセールスウーマンのプライドから誰にも何も聞くことが出来なかった。半年ほどで一人ぼっちになってしまい皆の輪に入るきっかけもなくした。もう、仕事どころか家事もどうしていいか分からなくなり、帰り道もわからない、服の着脱も出来ず、ただ壁を見つめて子供のころ好きだった歌を歌っていた。真面目過ぎて一生懸命過ぎて頑張り過ぎて壊れた。鬱がやって来た。鬱と一緒に自律神経も病んだ。入院して一年経った彼女に会った。初めての言葉は「下剤持ってる?一個ちょうだい」だった。60歳と若いしこれ以上病院に居ても出来ることはないと退院を迫られていたが子育て中の娘さんたちに太刀打ちできる相手ではなかった。そして、開所したばかりのめいの家には断る理由などなかった。
素の顔で歩いてきて突然殴る。大声で叫び全ての電気を消す。全員の部屋の電気をつけて消してつけて消して・・。スカーフを巻いてきて首にぐるぐる巻きつけて「殺して」と懇願する。厨房に入って行きフライパンから手掴みで揚げているコロッケを食べる、一日中「便が出ないねん。どうする?」と言いつづけ着ている服を引きちぎる、飛び出しコンビニで万引きする、走って車の前に飛び出す、大声で叫び続け喉が切れて血だらけになる。まあ思い出せるのはこんな感じ。振り返りざまグーで殴られて鼻血止まらんかったことや、引っ掻かれて腕がえぐれたこともある。何度もある。一日の内、排便があったその一瞬だけ普通の話ができる時がある。その時に昔の働いていた頃の話や孫や娘のことを話してくれる。普通のおばちゃんが現れる。15分限界で。その後はもう便秘。「便がでぇへんねん。殺して!」。
そんなだから、楽しい想い出はあんまりなくて。

高齢者虐待といわれる事件が世間で起こると私は彼女を思い出す。介護者が悪者になる、当然そうだ。虐待なんだから!でも私はいつも、この前になんかあったんじゃないかと、心をえぐるような何かがあって誰も助けてくれなかったんじゃないか・・とか妄想が止まらなくなる。辛い事があって誰にも言えなくて、庇ってももらえなくて心を閉ざしちゃったんじゃないかって思ってしまう。だからって許されないよ、もちろん許される事じゃない。でも介護士はどんな目にあってもプロだから。何とかするだろうなんて思わないでやってほしい。辛いし悲しいし痛いし、ものすごく腹も立つ。やり返したい気持ちに襲われる時だってある。あるんです。「私たちのことは誰が守ってくれるんですか?こんなに我慢して痛い目にあって泣いて辛くて心療内科に通うような精神状態でもまだまだご利用者様のために我慢するんですか?そりゃぁ誰もこんな仕事したくないわ。給料安いし割り合わんわ!」と由香に責められて、今まさに殴られてる私が「私が守るから!!」とも言えず苦笑った。そして。
彼女の話に戻るけど。この後彼女の刃が利用者に向かった。同じ階に暮らす婆様方を追いかけまわし恐怖を与えだした。一晩、北向と私と彼女は一睡もせず闘い抜いて、次の日の朝 精神科病棟に送った。これが限界だった。生活、と言える暮らしがそこにはなかったから。開所して一年くらいの新参者めいの家は、家ごと疲れ果ててしまっていた。娘さんと一緒に出て行く車を見送って、私と北向はへたり込んだ。眠気と脱力感と憔悴と・・何?悔しい気持ちや追いかけたい気持ちやなんかもう一瞬でぺっちゃんこになっていた。    それ以来彼女とは会っていない。

でも、意外と嫌な思い出もない。闘ったけど痛かったけど可愛い心細い繊細な人でもあったしどれだけ真面目に一生懸命に生きたか知っているから。そして、15年経った今の私ならもしかしたら違う方法思いついたかもしれないって思ってる。今更だけどね。

めいの家の職員は私が守ります。ってね、今なら大きい声で言い切るのになあ。
私がいるじゃないって言う事も出来ずにいた古い苦い話です。
ここで、諦めたたった一人の人です。
今も諦めきれない人です。

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