十二話 医師の嫁 認知症になる。

冷蔵庫を開けると、下駄が入っていた。お風呂場には植木鉢がひっくり返り、隠すように丸めた汚染物が放り込まれていた。下駄箱には肉が散乱しお金がばらまかれていて。リビングのペルシャ絨毯はおしっこでグチュグチュで、間接照明には便がこびりついていた。家の中は、何とも言えない腐敗した臭いがしていた。
ご主人はその地で地域に根差した優しいお医者さん。お金のない人には「またでいいよ、いつでもいい。ここはいつでも開いてるからね」と肩をさすってあげるような‥何十年もそうやって地域医療を支え、妻もまた困っている人をほっとけない心優しい人。
その妻が、認知症になった。医師である夫は、ただただ見ないふりをした。
家の中は崩壊していったがそれでも夫は見ないふりを続けた。
まさかまさかまさか・・と心の中は繰り返し叫んでいたという。明日の朝起きたら、夢だったってホッとするに決まってる。って信じたかったらしい。
めいの家に電話が鳴った。ある冬の寒い朝午前7時。明けの職員が電話に出たら「助けてください」と絞り出すような男性の声が返って来た。
大急ぎで向かった先は、最初に書いた地震が起こった様な、台風の後の様なえらいこっちゃなおうちだった。
奥様は凛と姿勢よく座っておられ、でもシャツをズボンのように穿いておられてご主人は憔悴して立ちすくんでおられた。
この半年、家の中で座ったことはなく、食事もお弁当の配達を立ったまま食べて、お風呂は銭湯に、眠るのは診療室で。「もう限界だ」と昨日裸で出て行こうとした妻を怒鳴った時に確信し、これは夢にはならない事を悟ったと「わかっていたんですけどね」と無理に笑っておられた。
恥ずかしさとか、情けなさとか、負の感情が渦巻きすぎてどうしていいか分からなくなり毎日をなかったことにし続けたんだと言われた。
「お座りなさいよ」と言われ、しゃがんだ私にご主人が「あかーん!!座ったらあかん!!」と大きな声を出されて飛び上がった。ジュクジュクしている絨毯に私が座っちゃうんじゃないかって心配してくれた。「このままじゃ妻を憎んでしまいます。殺してしまうかもしれません。助けていただきたい。わたしはもう医者失格です。自分の家族も診てやれん。」と肩を落とし鼻水垂らして号泣された。奥様をグループホームに、ご主人をデイに連れ帰り、おうちのお掃除を一週間かけて行いお二人の生活の凄まじさを垣間見た。ご主人は、医師であろうが、政治家であろうが、教師であろうが、どんな職業でも一緒、ただの男。世間体や体裁や‥そんなこと言ってるからどんどん時間が流れて傷口が大きく腫れて治らなくなるってわかりますか?ってね。家を片づけるまでの一週間ずっと医師であるご主人に説教し続けた。「私の気持ちが君にわかるかっ!!」って目を見開いて怒っていたけどね、わかるわけない。それぞれの気持ちなんかわかるわけない。私みたいな凡人にわかりゃしない。わかるのは、困った時は「助けて」って声を上げろって事。みんな助けてとも言わない人を助けてくれはしない。自分の人生なんだから困ったら困っていると赤旗上げなきゃ誰にも分ってもらえないじゃないか。我慢してなんかいい事あったかい?知らん顔して見ていて何か救われたかい?お金がどれだけあっても、家がどれだけ広くても、今までがどれだけ平和で幸せでも、家族に起こった病を軽んじてはいけないんだ。ちゃんと付き合って自分だけで解決しないで専門職を頼って自分の力に変えて、そして世の中に恥ずかしい病など存在しない!!と力の限り伝えた。
この先もずっと、家族が家族であり続けるために 自分にできることを精いっぱい大きい声で発信して周りの皆さんに助けてもらいながら生きる方法を考えましょう!
医師は医師の顔になり・・「そうやって診療してきましたよ、ずっとそう言ってました、私。思い出しました」と言ってまたいっぱい泣いた。
2人は一緒に生活する未来を選び、夫婦同室の施設を探し入居された。
私はお二人とはここでサヨナラになったけど、12年経った今もご主人から年賀状やラブレターを頂戴する。「死ぬまで医師であり、最愛の夫である為にできること未だ模索中であります」と97歳の力強い万年筆の字から幸せなんだなぁって想像できる。
「小生相手に怒鳴り、泣き叫び声をからして握ってくれた手のぬくもりは生涯忘れず。加えて、あの怒鳴り声も忘れることなし。有難き幸せな時間であったことも、なお鮮明に」と書き添えられている手紙に胸が熱くなり、嬉しくて泣きそうになってね。
これも出会い。ありがたい!!!宝物手紙。感情的にならないように日々精進いたします!!笑

 

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