父の教訓

以前ちょこっとお話したが、私の父は私が26歳のピチピチめちゃくちゃ可愛い頃にこの世を去った。胃の壁にできる癌で胃カメラにも映らなかった‥その頃は。今と違って本人に癌だよ宣告はせず父は解っていたかもしれないけど、胃潰瘍だという事で手術し、胃を全摘した。無口な父は、痛いとも辛いとも言わずベッドの上で製図用紙を広げ仕事をしていた。会社の人たちがやって来て病室は会議室になっていた。点滴しながら、輸血しながら、父は、大好きな仕事に没頭していた。チビチビっとビールを飲んだり、大好きなメロンを絞ってジュースにしてもらって飲んだり、マグロのお刺身をたたいて嚙まなくていいようにして口に入れたりしていた。父は本当に無口な人で、今日質問したことに明後日催促してやっと答えるくらい喋らない。ほっておいたらずっと黙って王貞治さんを見ている。そして黙って寝る。黙って大好きな仕事場に行く。黙って一人で飲んで帰ってくる。「ねぇ、父さん!!ねぇねぇ」ってゆすっても「ふふん」と小さく笑うくらいで。
そんな父が、一つだけ「宮﨑哲哉の教訓」を残した。
あまり喋らない人が喋ったので鮮明に覚えている。
私が新聞社で働き始めて一年くらいたったころのこと。全く貯金もしないしやりたい放題な私に母が切れた。「家にお金を入れるか貯金するかちゃんとしなさい‼‼、来月のお給料から私がいっちゃんのお給料を管理するわ。家にお金入れてもらうわね、哲哉さん(母は最期まで父をこう呼んだ)も言ってやってちょうだい‼‼」
母は、かなり怒っていた。声がオクターブくらい高めになっていたのできっと言い返したら、さらに怖い事になるのは解っていた。父も私も‥ね。
なのに、父は言い返した。ごにょごにょ言い返したんじゃなくて、しっかり喋った。                  「いやそれはいい!」と言ったんだ。初めてだぞっ!こんなこと。でも、ワクワクした。何言う気だろって。案の定 母はキャー!ってなった。もうキャーってなったとしか言いようがない。なんでなんでもいいよ みたいな感じ出して甘やかしていいと思ってんのか、仕事仕事って家のこと何もせんと私の援護もせんのか、哲哉さんは!みたいなことをものすごくいっぱい怒って言った。もはやターゲットは私ではなくなっていた。私はワクワクとオロオロの間を行ったり来たりしてた。母がひと段落着くまで聞いてんのか聞いてないんか分からん感じでちょい笑い顔でタバコを吸っていた父は、ふふん‥と笑って言った。

「ぼくが生きてる間は、子供たちのお金は絶対にもらわん。自分のことに使えばいい。自分自身のために使えばいいやないか。ぼくと三致子(父は母をずっとこう呼んだ)でやっていけるやろう。」

母は黙った。私も黙った。仕事以外に何の執着も興味もない父が強く言ったのはこれだけかも。あぁ、後は本を粗末にするなという事だけ。本を重ねてその上に乗って箪笥の上の物を取ろうとして、大きな声で怒られたことがたった一度だけあるから。そしてこの 親の生きているうちは子供の稼いだお金は子供の好きにしたらいい教訓は私が受け継いだ。苦しくても辛くても子供には頼らない。そして、手伝わない。自分の人生を生きろ!と思っている。

それぞれの家庭にそれぞれの教えがあって「素敵な教訓」が家族の数だけある気がする。私が今、私にできることをがんばれているのは父の教訓のおかげかもしれないでしょ。だってだれにも頼るな、自分で頑張れってことにも繋がってない?

いい話だったかどうだか分かりませんが、亡き父の数少ないエピソードでした。

私と父と弟